「新中部協同病院工事」より11月度の近況報告 – 株式会社東恩納組

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2019年11月18日建築部

「新中部協同病院工事」より11月度の近況報告

ブログをご覧の皆さん、お久しぶりです。建築部の上地です。

沖縄本島地方も11月に入り朝夕はヒンヤリする季節になった感がありますが、ブログをご覧のみなさまにおかれましては、体調維持には問題無いでしょうか?
私の配属先の「新中部協同病院現場」11月中旬の引き渡しに向けて内外部共に、追い込み作業の真っ最中であります。
残り半月、乞うご期待!!(ブログ公開時には内覧会が行われている時期でしょう!)

 

話はガラッと変わりますが・・・
先日、“首里城の一部が消失”する我が沖縄県民にとっては信じられない出来事がありました。
首里城は沖縄県民にとっては掛け替えのない存在であり、とりわけ建築に携わる我々業界にとってはその反響と悔しさはひと際大きなものがあります。

そこで、今回のブログの内容は、消失した首里城の“平成復元の苦悩”について触れて行き、早期の“首里城の再復元”をブログをご覧の皆様と共に祈念していきたいと思います。
(ブログの内容は、一部ネットからの資料を引用している部分も有りますのでご了承ください)

 

我々、沖縄県民には気づけば首里城はずっと前から、ここに当たり前のように存在していたのですが、消失して改めて首里城が他に及ぼす影響力の凄さに考えさせられています。
今回の首里城は長い復元期間を経て、平成4年に公開されました。
全ての復元作業が完了したのが今年の1月の事で、公開後も復元作業は継続されていたと言うから驚きです。
首里城の復元は、細かいパズルのピースをコツコツ探し、組み合わせていくようなプロジェクトだったようです。

1972年5月15日、 復帰をうけて首里城復元の声が上がります。

1985年から発掘作業が行なわれるものの、修復の決め手となる資料は戦争で燃えてしまって手がかりが無い中、高良倉吉氏(歴史研究家・琉大教授)を中心に古文書や家譜(家系図みたいなもの)などをしらみつぶしに調べていきます。

 

そんな中、文化庁に、昭和3年~8年の「 昭和の大修理 」の記録が保存されているものが見つかります。
これによって、建物の構造などは解ったものの、石垣の高さや石段の幅の記録がありません。
王国が滅びて65年後の1944年、首里城の敷地には国民学校がありました。
この国民学校の教師の真栄平氏の記憶がこの空白を埋めていきます。
毎日通った国民学校、石垣や石段は身体が覚えていたとの事です。

戦前の首里城の写真は残されていますが、塗装も剥げてしまった様子で、しかもモノクロ写真ばかりです。
どんな赤色か、どんな塗装が施されていたのか解らずじまい。

沖縄県立芸術大学に寄贈された 鎌倉芳太郎氏(染色家・沖縄文化研究者)の遺品の中にあったひとつの古文書!
18世紀の王国時代の改修記録『寸法記』が見つかります。
古文書には「朱ぬり」や「赤土ぬり」の文字が明記されていたため、首里城の赤の手がかりを求めて、北京の紫禁城やソウルの昌徳宮へ壁に塗られた弁柄色(暗い赤みを帯び色)にはたどり着きますが、窓の格子に塗られた 赤土ついての手掛かり得られず!

 

そういった中、高良倉吉さんは、久米島の役人が書いた献上品の記録の中に「久米島の赤土」の記述を見つけます。
更に、発掘現場から掘り出された赤瓦!
強くて、水を弾いて、鮮やかな赤色が 首里城の瓦です。
瓦職人 奥原崇実氏(元奥原製陶所)は、17才の時、昭和の大修理の 瓦の葺き替えに参加していました。
体調を崩した崇実さんに代わって 瓦を焼く息子の奥原崇典氏(平成の復元で瓦葺きに携わる)
首里城に葺かれる瓦は、約5万5千枚、それ以上の6万枚を失敗しながらも父の執念が、達成させたかのような 最高の赤瓦が焼きあがりました。

 

この様に苦難の末、【平成の大復元】が実現に至った経緯があったわけなんですが、仮に今後の復元作業においても、苦難が予想されるわけです。

専門家によると現時点では下記の課題が指摘されています。

【首里城再建への課題】

建材の確保人材育成の必要性が指摘されている。
前回の復元当時も復元に必要な材木の調達に苦労した背景があるという。
また、当時より大工や漆、瓦の職人の数は減少しているらしい。
1985年当時、首里城の資料は沖縄戦でほとんど焼失したため、戦前や戦中に首里城を見ていた建築士の話を聞いたり、古文書やそれを記したノート類、油絵などを参考に歴史や文化財、工芸関係者などの専門家を交えて史料研究会を重ねたという。

正殿の構造に使う建材には、半径約1.5メートル、高さ約10メートルの太い大きな材木が大量に必要になる。
史料などからタイワンヒノキが挙がったが、当時の台湾には伐採規制があり、購入は難航したという。
専門家は「近年は、当時よりさらに自然環境保護の意識が高い。沖縄に思いを寄せる地元業者に融通してもらったが、再建には建材調達が課題になるだろう」とする。

ただ、前回の復元作業とは異なり、今後の再建に向けては設計図も詳細なデータなどが残っているなどの利点もある。
財政面の問題はあるが、日本復帰50年の2022年に建設着工ということも可能ではないかとみられている。
その上で、当時は沖縄の大工も元気で、沖縄らしい木造の組み方や独自の材木もあった。
県内の職人も少なくなっているが、首里城再建には、10~20年かかると見込まれ、設計や職人も含めて、挑戦する若い人の力が要求されるでしょう!

 

今回も長くなり申し訳ありませんでした。

それでは、以上をもちまして今回のブログを閉めたいと思います。
来月にまたお会いしましょう。

 

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