建築史【300年~500年】 – 株式会社東恩納組

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2016年8月8日建築部

建築史【300年~500年】

おはようございます
工事部のチカラです♪

今年は台風1号の発生が遅く、8月初旬で発生した数は5つ。
沖縄へはまだ接近はありませんが、日々の情報チェックを怠らないで逝きたいものですね☆
さて、今回の私のブログでは300年頃~500年頃の建築物を紹介していきたいと思います。
『ディオクレティアヌス宮殿』
ファイル 954-1.jpg

300年頃建造
場所:クロアチア スプリト

ディオクレティアヌス宮殿は現在のクロアチア沿岸にあり、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが政治を引退した晩年に静かに余生を過ごしたいと考え、建設された強固な造りの宮殿がディオクレティアヌス宮殿です。
建設された当時は豪奢な別邸の特質を備えている一方で、巨大な門や見張り塔の存在によって軍事施設の特質も混ぜ合わせていました。
この大宮殿の建築そのものは、風変わりなだけでなく、孤立していて、共和政や初期帝政ローマの美的価値からかけ離れていたとされていました。

ファイル 954-2.png

西面、北面、東面からそれぞれ塔が突き出ており、不規則な長方形をしています。
南面は海に極めて近いため、無防備でした。
その上階にあるアーケード付き柱廊の精緻な建築上の組み立ては、より地味な他の3つの面(西・東・北)とは一風違って見えます。
それぞれの壁の中央につけられた堂々たる門は、中庭に繋がっていて、南の海に面した門は、形式と寸法の面で他の3つの門よりも簡素で、皇帝が私的に海に向かう場合や必需品の納入の際に用いられた勝手口であったとされています。

北側の門は「金の門」と呼ばれ、当時は金の装飾が施されていたようです。
ファイル 954-3.jpg
※金の門

東側には「銀の門」、西側には「鉄の門」、南側は「青銅の門」と呼ばれています。

宮殿の南側に南半分はより豪奢な建造物群で、皇帝の公的・私的な各居住区画や宗教施設が置かれていました。
北側には兵士や使用人が住んでいたと考えられています。
皇帝の居住区画は海沿いにありますが、地面でなく土台になる地下の構造物の上に建てられています。
これは、傾斜した地形が高さに差をもたらすことから、その差を調整するために地下部分が構築されました。
ファイル 954-4.jpg
※地下部分
この地下部分は中世には倉庫やワインを作る施設として利用されていましたが、地上部分に住む人が増えるにつれ、ゴミの捨て場に困った人々が、ゴミ集積場として使うようになりました。
天井を見ると所々に穴が開いていて、その穴から人々はゴミを捨てたりトイレにしたりしていました。
ゴミを地下に詰め込んだため宮殿遺跡が崩れることなく保存状態は良好で、その上にあった当時の部屋割りがどのようなものであったかを伝えてくれます。

当時ディナル・アルプス山中の宿路水源から水が運ばれていました。
中世の頃から水洗式トイレが使用されていて、建物奥の部屋には当時の水道管が現在も残されています。
当時の土木建築技術の素晴らしさが伝わってきますね。
ファイル 954-5.jpg
※当時使われていた水道管

宮殿はコンクリートと石造りで、石は地元の白い石灰岩や高品質の大理石で建てられました。
大理石の大半はブラチ島の石切り場から、凝灰岩の大半は近隣の河からもたらされ、煉瓦の大半はサロナ製とされています。

建設当時は離れた地所に建っていた宮殿も、ローマ帝国の滅亡後にここに住み付いた人々によってディオクレティアヌス宮殿は、使える部分を再利用されたり、増築されたりしていきました。
そうして古代と中世の建物が混在する独特な町並みとなり、1979年にディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群として世界遺産に登録されました。
今回はここまで!
次回は500年~700年頃の建築史を記事にしたいと思います。

以上、現場のチカラでした♪

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